澤田美喜(故人)によって創設された児童養護施設。

 第二次世界大戦後、駐留軍兵士と日本人女性との間に生まれ、親とともに暮らすことのできなかった子どもたちを引き取り、教育をし、一人前の社会人として送り出すための施設として設立された。
 養子縁組により海外に渡った子どもたちも多くいる。

澤田美喜は三菱財閥の創始者・岩崎弥太郎の孫、三菱三代目の当主・岩崎久弥の長女として生まれ、外交官・澤田廉三(後の初代国連大使)に嫁ぎ華やかな海外生活を送る一方、クリスチャンとしての信仰を深めた。
 ロンドンに駐在中に「ドクター・バナードス・ホーム」という孤児院でボランティアとして奉仕する機会を得、深い感銘を受け、終戦後駐留軍兵士と日本女性との間に生まれた混血孤児たちの不遇な状況を目の当たりにし、この子どもたちを救うのが自分の使命であるとの神様からの啓示を受け、救済に立ち上がった。

 ホームの名前のエリザベス・サンダース女史は、英国人で三井財閥一家の三井高精がロンドン駐在中に子息高國の養育係として採用され、一家が任期を終えて日本に帰るとき、請われて来日し、以後戦時中の困難な時期も含め33年間にわたり三井家に仕え、昭和21年に東京で亡くなった。
 遺産として遺された170ドル(当時61200円)の使途を託された友人のブッシュ氏は、澤田美喜と親交のあったポール・ラッシュ氏(山梨県清里に高冷地農業・畜産業を導入し、清泉寮を開設した人)に相談し、折から混血孤児のための乳児院設立に奔走していた澤田美喜に開設資金として寄付された。

194710 1 日 混血乳幼孤児収容施設設立発起人会が東京・築地・聖路加国際病院に           おいて開かれる。上記170ドルを設立基金とし、同女史を記念として、
         新施設を
エリザベス・サンダース・ホームと命名。
         澤田美喜、発起人代表と
なる。 

1948 2 1日  乳幼児エリザベス・サンダース・ホーム創立。
          澤田美喜、初代園長に就任。2名入所
    623 日  乳児院認可 30

1948 4 1 日  養護施設認可、定員50 

戦後の財閥解体により岩崎家の手を離れていた大磯の別荘を金策に大変な苦労をしながら買い戻し、1948年エリザベス・サンダース・ホームと名づけた乳児院を作った。その後子どもたちの成長に合わせて児童養護施設とし、2千人の子どもたちを育て上げて社会に送り出し、1980年旅先のスペイン・マジョルカ島で急逝するまでの30年間、母として教師として子どもたちの養育に人生の後半を捧げました。 

現在は様々な事情により、親と一緒に生活することが困難な家庭の子どもたちが生活しており、 2歳から18歳までの子どもたち約100人が10の寮に分かれて生活している。
  同じ敷地内にやはり澤田美喜によって設立された聖ステパノ学園小中学校があり、ホームの子どもたちの大半が通っています。敷地内には、澤田美喜が収集した隠れキリシタンの遺品の展示を行う資料館「澤田美喜記念館」があり一般に公開されている。
                   (資料:エリザベスサンダーホームの
HPより)

 


「澤田美喜記念館」

    

 

  

エリザベス・サンダース・ホーム
https://www.elizabeth-sh.jp/


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エリザベス・サンダース・ホーム(神奈川県大磯町)

2016.4.15






















=トンネルの向こうは僕らの楽園だった。=

 130mのトンネルが母と子の葛藤の場でもあった。「トンネルを出ればこの子と別れなければならない。引き返すなら今だ… でもこの子の将来が…」 その時代、敵国兵士との子ども達は一般には受け入れがたく、父親の所在も分からないような時代。生まれた子どもに、何の罪はないのだが、過去の戦争の犠牲になった。 でも、子供たちにとっては、トンネルの向こうは楽園だったに違いない。
 私はトンネルを歩いていて、その当時の様子が頭を過った。
 私の小学校時代、同じクラスには朝鮮戦争時代の混血児がいた。
 今、どうしているのだろうか…。