大久野島(おおくのしま)は、瀬戸内海に位置する島で、広島県竹原市忠海町から沖合い3キロメートルに位置し、周囲は4.3キロメートル。
「地図から消された島」や「毒ガス島」などと呼ばれ、第一次世界大戦以降の化学兵器製造の実態を今に伝えている。現在は国民休暇村も設立され、沢山のウサギが生息する。
毒ガスの製造
大久野島には、明治30年代に日露戦争開戦に備え、砲台などが設置された。その後砲台は撤去されたが、陸軍は、第一次世界大戦時に、地理的な条件や秘匿の容易さなどから、大久野島を化学兵器の生産拠点に選び出した。ここから、毒ガス島の歴史が始まった。
化学兵器は、1925年のジュネーブ議定書で戦争での使用が禁止されていたが、開発保有は合法だった(また、当時の日本は署名だけしており批准はしていなかった)。
1929年(昭和4年)5月には生産施設の建設に着手した。東京第二陸軍造兵廠忠海製造所と呼ばれており、主な生産施設には島内北西部の長浦工場地帯と三軒屋工場地帯の2箇所があったほか、発電所、材料・製品倉庫などの関連施設が置かれていた。
毒ガス工場の存在は機密性から秘匿され、陸軍が発行した地図においても大久野島一帯は空白地域として扱われた。日中戦争から第二次世界大戦中を通じ主に中国大陸で使用する目的の化学兵器が生産されたほか、殺虫剤などの民生品も生産された。大久野島で生産された毒ガスの総量は6,616トン、生産された毒ガスは、インペリットガス、ルイサイトガス、クシャミガス(呼吸困難)、催涙ガスの4種類である。
地元の農民や漁民、勤労動員学生ら6500人が一定の養成期間を経て従事していた。第二次世界大戦終期の1945年には戦局の悪化により化学兵器の生産は縮小され、通常兵器の生産に切り替えられた。このとき一部の毒ガスが海洋投棄され、処分された。
太平洋戦争終戦時に島内に残留していた毒ガスの量は、イペリットガス1,451トン、ルイサイトガス824トン、クシャミガス958トン、催涙ガス7トン、計3,270トンだった。終戦後、GHQ(主にイギリス連邦のオーストラリア軍)や政府により施設解体や残された化学兵器の処分が、周辺海域(北緯32度37分、東経134度13分、他2箇所)への海洋投棄、火炎放射器による焼却、島内での地中処分といった方法で行われ、除毒措置も施された。しかし処分は十分ではなく、
現在でも島内地下4〜5メートルの土壌で高濃度のヒ素が検出されるなど、負の遺産を受け継いでいる。
大久野島で働いていた職員達にも被害はあり、1950年に元従業者から喉頭がんが初めて発見され、また激しい咳や膿性のタン、原因不明の頭痛に悩まされる人が相次いだ。また毒ガス後遺症の特性として知られる肺炎や慢性気管支炎、呼吸器系の癌になった者がいた。
しかし有効な治療法はなく、できるだけ栄養をとる程度の対策しか講じられなかった。政府は1954年に救済のため特別措置を適用したが、それが毒ガス障害者の全員に適用されたわけではなかった。また毒ガス関係者のガン発生頻度は全国平均の15倍と報告されて、約4500人の患者が治療にあたった。
こうした歴史を風化させないという地元住民の願いにより、1988年に大久野島毒ガス資料館が開館した。大久野島には現在も危険な土壌汚染地域や倒壊の可能性がある建物もあるため、立ち入り禁止になっている場所も存在する。
大久野島(毒ガス島 広島県)
火薬庫跡
2014.4.16
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