弾薬元庫 出入口



















弾薬庫

机の上に子ども達の写真がある。

日本を経由して第三国に脱出した経路を示した地図

当時の手書きビザ

杉原千畝の執務室 この机でビザを書き続けた。

 19399月 ドイツのポーランド侵攻により第二次世界大戦が勃発、ドイツとソ連はポーランドを占領し、約12000人のポーランド系ユダヤ人は当時まだ独立国だったリトアニアに避難した。 その2か月後の19391123日に外交官の杉原千畝領事代理は、リトアニアや隣国の状況について情報収集を目的にカウナスに日本領事館を開設した。

 リトアニアに亡命したユダヤ人たちは戦争の危険が及んでない国に亡命を望み、リトアニアで外国のビザを得ようとしていた。そして、当時日本政府はユダヤ人問題に中立な立場を取っていた為、ソ連経由で日本に到達して安全な第三国に移住するため、日本への通過ビザの発給を嘆願していた。

 その間、ソ連はリトアニア支配後、カウナスにある全ての外国大使館を閉館するよう通達した。
 杉原千畝はこのような状況を見つめながら、独断で19407月~8月にかけて、日本領事館で118時間働きながら、手書きで2193通のビザを発給し約6000人がそのビザを使用し、安全な自由な国にたどり着いた。

「彼らは人間で、助けが必要だった。喜ばしいことは自分の中にその助けを与える決定する力を乱したことである。」 (杉原記念館パンフレットより抜粋  www.sugiharahouse.com

弾薬庫

弾薬元庫 出入口

2018.9.22



















戦跡top

「Sugihara Memorial Hall」    Old Japan consulate of Kaunas (Lithuania)

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旧日本領事館
「杉原記念館」(リトアニア カウナス)